第248回 意匠学会研究例会 発表要旨
■「松花堂に現存する竈の特徴」―丸瓦の意匠を中心に―
佐藤 悦子/京都工芸繊維大学大学院
「松花堂」とは江戸時代初期を代表する芸術家である松花堂昭乗(1584~1639, 以後, 昭乗)が1637(寛永14)年に創建した方丈である。昭乗は真言密教の阿闍梨であり,絵画, 書道, 茶道に堪能で特に寛永の能書家三筆のひとりとして高名である。昭乗がまだ10代半場の頃に関ヶ原の合戦が終わり, 徳川家康(1542~1616)の幕府政治が始まる。戦乱の世の終結とともに,政治や経済が安定し文化的な環境が整ってくる。このような社会的背景は様々な芸術家との交流を助長し,昭乗の独創性を育んだ。
昭乗は17歳で石清水八幡宮の塔頭の一つである瀧本坊に入りこの昭乗が晩年,瀧本坊の南の泉坊に隠伿し,その直後の1637年,「松花堂」という草庵を泉坊の側に創建した。畳間2畳に土間1畳と水屋1畳半の建物であった。その後明治時代初期の廃仏毀釈によって全ての宿坊は撤去された。泉坊と松花堂も破却されたが,その後,石清水八幡宮に縁のある大谷治磨氏が破却材を600両で買受け八幡の山路にある自邸に移築したのである。その後二度の移築(移築者は井上伊三郎氏)により現在,京都府八幡市の松花堂美術館内に泉坊の一部と松花堂は現存している。
昭乗の人間的魅力や芸術性については, 宗教(真言密教),書,絵画,茶道,の分野において多くの先行研究がなされているが,松花堂の土間に設置されている竈についての記述は少なく竈にオブジェのように配置されている丸瓦についての写真記録は数点見られたがこの丸瓦に付いての記述は先行研究文献の中には見つけることができないでいる。誰がいつの時代に嵌めこんだものなのか不明である。江戸時代は防災に対しての知識や危機感が乏しかったのか瀧本坊は昭乗が住職をしていた寛永年間中あたりに一度,昭乗没後,安永2年に二度目の火災に見舞われている。また,明治の廃仏毀釈では瀧本坊,泉坊と松花堂も破却された。そのために創建当時の姿を辿ることができる明確な資料が残っていないことが辿れない原因であろう。『京都府』,1919(大正8)年の資料の中に「土間の竈を中心として各室の連続甚だ要領よし」との記述があり竈の写真の中には丸瓦が写っているがそれ以上の竈に関する情報は無い。そこで, この竈の特徴である瓦について, 現状の調査,周辺の歴史的追跡調査からできる限り明らかにすることがこの論文の目的である。この研究が可能であると考えた根拠は次の3点である。1)瓦に掘られた文字「恵心院」が現存し, 許可を得て様々な調査ができたこと。2)松花堂の竈と似た瓦が施された別の竈を近隣で発見できたこと, またその由緒を調査できたこと。3)筆者自身が, 移築者(井上伊三郎氏)の遠縁であり, 当該竈について幼い頃見聞きした記憶があり, その事実と上記1)と2)を関係付けながら論理的に推定できること。これらを基に竈の制作年や丸瓦の出所,丸瓦の意匠的特徴について考察することで, 結論の中で, 竈が誰の手でどの時代に設えられたのかに対する現状における論理的な見解も述べたいと考える。
■戦後日本における洋裁教育としての批評とその形式主義的側面
─雑誌『装苑』の言説をもとに─
五十棲 亘/神戸大学大学院
本発表は、戦後日本のファッション史における、衣服のデザインに対する洋裁技術への関心と結びつく批評が有した意義を検討するものである。
戦後の洋裁ブームにみられるように、洋裁技術に対する人々の関心は、その技術を提供した洋裁学校や機械、メディアのような様々な要素を包含し、一つの文化を形成してきた。その一方、戦前期のスタイルブックの登場以降、日本では国外の服飾文化と職業としてのファッションデザイナーの存在が可視化されるにつれ、家庭内労働としての衣服製作とは異なる実践として、衣服の「デザイン」に対し、その行為や観念の内実が議論されることになる。そうした状況を背景に、戦後の服飾雑誌では、読者への技術教育とデザイン教育を目的とした批評という形式が登場する。そこでは、教育目的に則した技術の側面から衣服の価値づけが行なわれたゆえに、製作物の主題や内容ではなく、衣服の線や形態といった物質的条件に関心が注がれ、その美的価値が解釈される「形式主義」ともいえる批評が見られるようになる。
本発表では、戦後以降の日本のファッションデザイン批評が抱える問題の一端を明らかにすべく、雑誌『装苑』(1936-)における衣服とそのデザイン批評のあり方に着目したい。まず、『装苑』にて連載された批評の記事が、洋裁技術の習得を目的とした『装苑』の諸記事や当時の洋裁教育に対し、どのような位置付けの上に存在していたのかを示す。次いで、国外からの流行受容における衣服のシルエットへの関心をもとに、技術の問題として展開される衣服を構成する線と身体に対する批評の言説を考察する。これにより、戦後期という「洋裁」と「ファッションデザイン」といった語彙や実践が混淆する時代において、衣服に対する形式主義的批評のあり方と、衣服の形態に対する身体の問題がどのように交わるのかを指摘したい。
■大林宣彦監督「時をかける少女」における時間の多層構造と地域資源
髙橋 紀子/福井工業大学大学院
発表者は脚本家である自身の専門性から発想し、「地域資源の魅力の発信と記録を目的とした映像制作の手法」を研究テーマとしてきた。美しい風景や伝統文化などをドキュメンタリーとして表現する映像ではなく、そこに「物語」を介在させる映画的手法による地域プロモーション映像の方法論的研究を行ってきた。また、そのケーススタディとして、福井を舞台とした映像作品を2本制作したが、その制作プロセスに対する省察を通して、映像表現における時間性とその多層構造に着目する視点を獲得した。
「時間の多層構造」とは、現実(実写する風景や人物などのノンフィクション)と虚構(フィクションとしての物語)が入り混ざる映像表現によって、鑑賞者にとって意識的・無意識的に、幾重にも重なる多層的な時間性が構成された映像表現を指す。今回の発表では、この「時間の多層構造」による映像表現の卓越した事例として、地方都市を舞台に数多くの名作映画を生み出してきた映像作家・大林宣彦監督の代表作である「時をかける少女」を分析の対象とする。いわゆる尾道三部作として知られる作品の一つであり、大林監督がこの作品で尾道の魅力を描いた表現手法を明らかにし、地域資源を描く手法としての普遍性をめぐって考察することを目的とする。
分析にあたっては、①「物語」と地域資源との関係、②「時間性」とその多層構造を発生させる仕掛けの解明、の2点について、この映画の表現手法を記述することを試みる。①では、映画「時をかける少女」の骨格となった「物語」について、筒井康隆の原作小説、剣持亘の脚本、剣持脚本を大林監督が潤色した撮影台本、という3つの工程を検証し、尾道ならではの地域性が感じられる「物語」へ変移した経緯とその効果を考察する。次に、②では、映像において多層な「時間性」を内在させる手法を作品から抽出し、その分類と効果の検証を試みる。