第246回 意匠学会研究例会 発表要旨
■19世紀後期英国のデザイン改良運動におけるオリエンタリズムの形成
―オーウェン・ジョーンズを事例として─
竹内 有子/京都先端科学大学
19世紀後期英国のデザイン改良運動においては、非西洋文化圏である東方(東洋)のデザインが模範とされた。この局面で重要な役割を担ったのが、建築家・著述家・デザイナーのオーウェン・ジョーンズ(Owen Jones,1809-1874)である。彼の著した『装飾の文法』(1856年)は、西欧の古典古代を重視する世界観から離れ、イスラム圏・アジアまでに渡る装飾文様を収録した。 実際、彼と東方の芸術との接点は、グランド・ツアーにあった。ジョーンズは1831年から旅に出立、イタリア・ギリシア・エジプト・トルコ・スペインを訪れた。なかでもエジプトとスペインでの建築調査の成果は、二つの著書『ナイル川の眺め』(1843年)と『アルハンブラの平面図・立面図・断面図・細部』(1836-45年)に結実した。さらには、クリスタル・パレスの内装デザインとシデナムでの芸術展示、『装飾の文法』出版へと展開した。
そもそも近代のオリエンタリズムは、ナポレオンのエジプト遠征(1798年)の文化・学術的成果である『エジプト誌』(1809-22年)を契機とする。ジョーンズは、ゴットフリート・ゼンパーの助手として古代建築のポリクロミーを研究していたフランス人建築家、ジュール・グーリー(Jules Goury,1803-1834)と出会った。建築と色彩への関心を共有した二人は、1832年にエジプトに到着、ヌビアへと渡った。翌年2月には、ルクソールでカルナック神殿を調査した。34年にはコンスタンチノープルからスペインへと旅立ち、グラナダでアルハンブラ宮殿の装飾研究に携わった。
先行研究では、ジョーンズにおけるイスラム芸術―アルハンブラ宮殿-の礼賛が特に注目されてきた。しかし、彼が実見した古代エジプト建築を中心に、アジア迄をも含む東方芸術の評価の諸関係およびその全体像は詳らかでない。本発表の目的は、ジョーンズの旅・著述・展示の実践・デザイン理論の解析を通じて、彼に見られるオリエンタリズムの成立過程と意義について明らかにすることである。
■理想と現実の入れ替え:川島理一郎の広東従軍行
陳 鶯/京都工芸繊維大学工芸科学研究科研究生
洋画家の川島理一郎(1886-1971)は1939年初めに陸軍省の嘱託を受け中国広東に派遣され、現地で1ヶ月間滞在した。その広東従軍の成果として、同年の「第一回聖戦美術展」に出品された「広東大観」と「第三回新文展」に出品された「施米」の二点の油絵、及びその著書『北支と南支の貌』(1940年)に収録された従軍記がよく知られているが、日本工房が南支派遣軍の出資により広東で刊行した英文宣伝グラフ雑誌『CANTON』1巻3号(1939年6-7月号)に掲載された絵入りエッセイ「My Impression of Canton」(私の広東印象)は彼の数多くの広東従軍随筆の中の唯一欧米の読者向けのものであり、今まで研究対象として取り上げられていなかった。
本発表は川島の「私の広東印象」から着手し、その図版と文章を通じて、青年時代からアメリカ、ヨーロッパ、東アジアで豊富な活動経験を持つ川島は自分の眼に映った広東のどのような部分をピックアップして欧米の読者に提示しようとしたのか、そして、彼は欧米に向けて他者(広東・広東人/中国・中国人)と自身(川島本人・日本・日本人)の関係をどのように見せようとしたのかを考察する。また、川島が同時期に日本国内向けに発表した広東に関する絵画作品や記事と比較することで、彼が欧米と日本の読者にそれぞれ伝えようとした情報の異同を、そして、彼がこの広東従軍の目的である「戦争記録画」の制作に対してどのような思いを持っていたのかを観察する。
従って、本発表は、(一)「私の広東印象」の記事内容の分析、(二)川島の広東従軍期間に創作した絵画作品とその戦争画観、(三)川島が描いた広東に見る画家の東洋意識、三つの部分で構成し、『CANTON』雑誌の掲載記事を原点とし、従軍画家としての川島理一郎の広東での創作活動と思想を論考する。