第219回意匠学会研究例会 発表要旨

■20世紀初頭の英国における輸出用キモノの流通と日英業者の相互交渉について
山田晃子/大阪大学大学院

 本発表は、20世紀初頭の英国において、日本製輸出用キモノがどのように英国に渡り、国内でどのような形で販売され、一般の消費者の手に渡ったのかを、日英双方の文献資料を比較することで明らかにするものである。  当時日本の最大の貿易相手国であった英国には、キモノを含む大量の日本製輸出工芸品が渡っており、その影響はフランスと比べても意義深いものであった。しかしながらこれまで、英国のファッションにおける日本の影響は、19世紀末までを対象とする研究の中で捉えられるにとどまってきた。そのため、英国内でキモノ販売が拡大し、キモノが一部のコレクターだけでなく、一般にまで浸透した20世紀初頭の大流行とその影響については見落とされてきた。  とはいえ、東洋製品販売の大手Liberty商会による20世紀初頭のキモノ販売はすでに知られている。しかし、実際にそれらがどのように日本側業者から英国にもたらされたのか、そこに誰がどう関わっていたのかという問題に関しては、実際ほとんど明らかになっていない。近年、林忠正や執行弘道、起立工商会社や山中商会など、日本の絵画などの美術品や陶磁器などの工芸品を輸出した美術商の活動に関して議論され始めた。しかし、同じように刺繍製品や絹製品を製作・輸出した高島屋などの、キモノ輸出の重要性は全く見落とされていると言っていい。  本発表では、英国ファッション産業におけるキモノの広がりとその流通経路を明らかにするとともに、英国内での流行の時期と地理的範囲、またどのような階層の人々が流行の中心となったのかを、英国内に現存する現物資料を参照しながら考察する。同時に、その流通・消費の過程で、現地の需要に合わせてそれらがどう変化したかという問題も考えたい。これらを、英国の百貨店と日本の高島屋に注目し、日英双方の資料を突き合わせて検証することで、20世紀のキモノブームのもつ意味と、その中で日英の業者が果たした役割の一端を浮き彫りにしたい。



■月待ちの意匠 〜銀閣の設計手法における東山文化の美意識〜
大森正夫/京都嵯峨芸術大学

 室町文化、とりわけ東山文化は日本の諸藝術に多大な影響を与え、今日の日本人の美意識や趣味の形成において極めて大きな存在である。東山時代とは、室町幕府第8代将軍足利義政が東山山荘へと移住してから没するまでの短い期間(1483〜1490)であるが、それは義政の趣味に基づいた芸術文化が大きく発展し、後世の日本人の心の奥底に「記憶」させる日本的美意識を確立させた時代に他ならない。  特に、現在でも継承されている連歌俳諧、茶の湯、いけばな、聞香、能楽、床の間、畳、築庭、精進料理など、諸処の文化活動に新鮮な局面を開いたこれらのものはすべて東山文化を代表するものである。そして、「わび」「さび」「幽玄」などを特徴とする表現には、客観的写実性より主観的象徴性が相応しいとされ、ここで築かれた藝術観は、近代化やグローバリゼーションの中でも色褪せる事なく日本人の心の「記憶」として生き続けているのである。しかし、その神秘的な言説に拠る故か、文献的資料や遺構建造物の不足に拠る故かは定かでないが、室町文化の粋を成した東山文化の発信源である東山殿(遺構としての「銀閣とその園池」)の意匠学的観点からの研究は乏しく、国宝・銀閣の建立意図させも解明されていなかった。  そこで、造形上の特徴を顧みる前に、日本文化が生み出す諸藝術の根幹を成している「作法」や「躾」などからくる美意識、すなわち伝承的に習慣化した身体感覚での使われ方や見方などを拠り所に諸処の意匠や空間配置を捉え直すことによって、東山殿の藝術性が垣間見えてきたのである。  日本人は万葉集を繙くまでもなく、月への思いが尽きない。 「わが庵は 月待山の麓にて 傾く空の 影をしぞ思う」 足利義政が詠んだ一首である。この歌を詠んだ当時の面影は、銀閣と東求堂とわずかに残る苑池しか残っていないが、この質素な造りの建造物から、文化行事としては非常に重要な「観月の宴」に込めた美意識が蘇ってきたのである。 本発表では、観月CGシミュレーションから東山殿での空間構成を解説する。