第209回意匠学会研究例会 発表要旨

■「矢印にみる日本の方向指示表記の変遷」
近藤 晶/福井工業大学

 矢印とは、方向や場所を指し示すために使用される記号である。サイン、マニュ アル、インターフェースなどグラフィックデザインで重要な要素であり、様々な 文化の違いを超えて意味を伝えることから、様々な状況において非常に効果的に 使用されており、視覚的に動きを最も積極的かつ合理的に表現しているといえる だろう。
人類の歴史において、現在最初に矢印がみられるのはフランスのニオー洞窟壁画 である。この壁画は洞窟の入り口から1000m近く奥に入った場所にあるサロン・ ノワールと呼ばれる空間で見ることができる。壁面に描かれたビゾンの多くに は、その腹部周辺に矢印が描かれている。他の洞窟において、矢印の原型につな がるものとして、同じくフランスにあるガンティエ・モンテスパン洞窟に、棒状 のもので壁画の上から突き刺したような跡が見られる。
 これらの壁画で示される矢や突き刺した跡は、ビゾンや牛の位置を示すために用 いられているのではなく、おそらく呪術や狩猟成功の祈りといった意味合いが強 い。現在の矢印と同様の意味で使用された最初の図は指である。これは、人類が 実際に方向を指で指し示す行為から図案化されたものであり、1世紀には弁論に 関する書籍で指差しの重要性を述べられていることから、このころには成立して いたことは間違いない。このようなことから矢を使った方向指示の表記も、狩猟 や戦争において移動の方角や地図上の位置を示すために用いられ、この行為が図 案化された結果現在と同じ意味の矢印が成立したと考えられる。
 日本において、現在と同じ意味で使用される矢印が登場するのは江戸時代以降の 地図である。日本でも矢を用いた狩猟や戦が行われていたにもかかわらず、矢印 の登場が西洋に比べて約4世紀ほど遅れており、日本での矢の図像に対する概念 の変化が遅かったことを表している。
 これらのことから、矢印とその周辺を見ることで方向を表す行為や様式にどのよ うな変化があったのかを明らかにすることができるのではないだろうか。



■「1960年代日本美術における「デザイン」の意義について
―「色彩と空間」展(1966年)がもたらした議論を中心に」
秋丸 知貴/日本美術新聞社/京都大学こころの未来研究センター共同研究員

 1960年代を通じて「美術のデザイン化」に関する議論の展開は、シンポジウム 「『反芸術』、是か非か」(1964年、出席者:東野芳明、池田竜雄、磯崎新、一 柳慧、岡本信治郎、杉浦康平、針生一郎)から「色彩と空間」展における「発注 芸術」の提起(1966年)、主として1970年の日本万国博覧会(大阪万博)と関係 の深い「環境芸術」などに見ることができる。その中でも「発注」は、美術がデ ザインや建築の方法論に寄り添うことを意味し、一見それらと同化したという点 で、最も非芸術的表現であったと言えよう。
 「色彩と空間」展は、東野芳明の企画により、1966年9月26日から10月13日ま で南画廊で開催された展覧会である。参加作家は、サム・フランシス、アン・ トゥルーイット、磯崎新、五東衛、田中信太郎、三木富雄、山口勝弘、湯原和夫 の8名である。フランシス、磯崎はそれぞれ画家、建築家として知られ、五東 (清水九兵衛)は当時、陶芸・塑像を手がけていたが、本展では8名とも彫刻作 品を出展している。各作家が設計図やスケッチにもとづき他者に制作を依頼し、 作品を完成させた点に特徴がある。
 展覧会趣旨は、要約すれば「美術とデザインの間」を敢えて提示する試みとし て展開されている。ここには、「デザインは匿名的で量産可能であり、美術は個 人の表現で原作一点主義である」という区別が、美術の存在意義を支えるには不 十分ではないかという当時の美術批評家たちの問題意識が反映されている。
 本発表の目的は、主として東野芳明、針生一郎、中原佑介、粟津潔らの言説を 通じ、60年代美術の動向を当時のデザイン領域との関係から捉えなおすものであ る。特に50年代後半から60年代にかけて、公共建築や企業建築の装飾にデザイ ナーや画家・彫刻家が関与する機会が増えるにつれ、共同制作の方法をめぐる議 論が63年前後から活発化した。また、美術、建築、デザイン、音楽などの各領域 からの参加者を交えて、展覧会やイヴェントの開催形式が多様化していくのもこ の時期である。こうした背景との関連から、美術の側にあるデザインとの関係の 意義を明らかにしたい。