第215回 意匠学会研究例会

終了2013年9月21日(土) / 形態:対面

日時
2013年9月21日(土)
形態
対面
担当
橋本啓子委員

プログラム

平成25年9月21日(土)
研究発表    14:00 〜 16:00
研究発表懇談会 16:00 〜 17:30


会場アクセス

神戸学院大学 ポートアイランドキャンパス B号館1F B109教室
http://www.kobegakuin.ac.jp/access/portisland.html
〒650-8586 神戸市中央区港島1-1-3

※主要交通機関からのアクセス
1)JR・阪急・阪神・神戸市営地下鉄「三宮駅」より 神戸新交通ポートライナー「みなとじま」駅下車、西へ徒歩約6分
2)直通バス「三ノ宮駅」より 「そごう前・キャンパス線」のりばから「ポートアイランドキャンパス行」に
 乗車し、約14分
3)直通バス「神戸駅南口」より  「神戸駅南口(ポーアイキャンパス線)」のりばから「ポートアイランドキャンパス行」に乗車し、約15分


役員へのお知らせ

当日12:30より「B館1F B108教室」で役員会を開催いたします。役員の方々はご参集下さい。
なお当日は、学内食堂もご利用いただけます。
(役員会の皆さまにはご報告の準備と、審議の迅速化にご協力ください。)

意匠学会委託事務局 大学生協 学会支援センター
Tel 03-5307-1175 / Fax 03-5307-1196
e-mail:


研究発表要旨 第215回 意匠学会研究例会

研究発表要旨谷本 尚子

フィンランドにおける構成主義の受容

ロシアに源流を持つ構成主義運動は、中欧ヨーロッパにおいてはほぼ同時代的に受容され、各国独自の変容を見せた。しかしロシア革命により1917年12月31日に独立を宣言したフィンランドでは、指導者達は国際的な構成主義の方向を容認せず、国家浪漫主義的な方向を自国の芸術と認識していた。特に1918年のフィンランド市民戦争において、赤衛軍と呼ばれた急進派の左派勢力との内戦により、フィンランドとロシアの繋がりは断絶する。フィンランドでの構成主義の受容が遅れた理由の一つ目は、こうした政治的理由が挙げられる。
フィンランドで構成主義運動の受容が遅れた理由の二つ目は、工業化が1950年代まで遅れたことが挙げられる。一部の有能なデザイナーA.アアルトやP.テュネル等を除いて、工業デザインにおいても1940年代のフィンランドデザインは工芸的伝統を引き継いでいた。建築に於ける機能主義的傾向、ヴェスニン兄弟やE.リシツキーの影響と考えられるダイナミックな構造物が実現するのは、1960年代であった。
しかしロシアに端を発する幾何学的抽象芸術としての絵画や彫刻に関する構成主義の受容は、1910年代から始まり、1950年代には独自の世界観を表すに至っている。
フィンランドの構成主義という概念については、1970年代初めより後になって定義されたものと考えられる。1974年春、ヘルシンキのアモス・アンダーソン美術館にてフィンランドの構成主義展が初めて開催された。その後、1979年テキサス大学付属美術館で、1980年ハンガリー・ナショナル・ギャラリーで開かれている。本発表ではこの二つの展覧会カタログを参照し、フィンランドにおける構成主義芸術の受容について考察したい。谷本 尚子(関西学院大学)

研究発表要旨山口 良臣

俳句的アート解釈

昨年の秋、市民向け公開講座を担当することになって、二十世紀美術に触れる必要があった。なかでも、ダダやダダ的なもの、さらに抽象表現主義をどう説明したらよいか考え込んでしまった。たとえば、デュシャンの便器。本来それが置かれる場所から引き離され、全く異なった場所に置かれれば、まるで違った見え方をすると言ったところで、だから何なのと聞かれれば、後が続かない。美術史上の位置づけなり、背景を説明するにしても、「だから何なの?」が解消されるわけでもない。確定した答を見つける必要などもちろんないのだが、「だから何なの?」を考えるための手がかりは示したい。
グリーンバーグは、抽象絵画が絵画の純粋性を追い求めるのに対して、シュルレアリスムを「外部の」主題の復活を企てる反動的傾向とみなす。一方、レヴィ=ストロースは、抽象絵画には意味論的範疇の現実をもたらすという芸術作品の本質的属性が欠けていると言って批判し、レディ・メイドのオブジェを言語ととらえ、通常の言語と芸術との差異に言及している。ボードリヤールは、レディ・メイドがひとつのアイデア、記号、暗示、概念であって、何も意味していないが、それでもなお〔意味しないという〕意味作用を含んでいると述べる。手がかりを求めるとすれば、やはり、意味作用の問題として考えるしかないだろう。
芸術作品と呼ばれているものの意味は、大抵の場合、見る者が勝手に想像するしかない。レディ・メイドの場合は特にそうだが、作品それ自体は、メタメッセージの状態に留め置かれている。「俳句」もまた、同様のあり方をしている。
俳人の坪内稔典氏は次のように書く。「俳句はほとんど片言に近い。片言は、それを受けとる受け手(読者)によって補完される。補完されてはじめて意味を持つのだ。つまり、片言としての俳句は自己を表現する詩形ではない。」
俳句が、アート解釈の手がかりとして使えるのではないか?俳句的アート解釈の試み。山口 良臣(名古屋市立大学)


ADD: 発表要旨の追加