第245回 意匠学会研究例会 発表要旨

■戦中期の対外文化宣伝における「JPS PICTURE BOOKS」の役割
―『Girls Of Japan』を中心に―

橋詰 知輝/京都工芸繊維大学大学院

 1940年代ごろ、日本の対外的な評価の低下をとどめるため、政府とその関連事業は、次々に対外文化宣伝を行った。その形は非常に様々であるが、写真は視覚に直接訴えることのできるメディアとしての力を持ち、対外文化宣伝の中で非常に大きな力を発揮した。本論文では、1930年代の写真に関する対外宣伝とそれに関わる中央工房の活動に言及し、先行研究の存在しなかったJPS PICTURE BOOKSに焦点を当てた初の論文である。中央工房内からシリーズ写真集が出版されていた事実はあまり認識されているとは言えず、これらの概要を述べたことは、中央工房内の活動の一つを浮き彫りにするものである。現在知られているものとして、JPS PICTURE BOOKSには『Bunraku』『Four Japanese Painters』『Girls Of Japan』の3冊が存在している。これらは日本工房と中央工房に近い立場にあった、当時の有名写真家達が撮影を手掛けており、『Bunraku』は渡邊義雄が、『Four Japanese Painters』は木村伊兵衛が、『Girls Of Japan』は彼らを含む6人の写真家が撮影を行っている。初めに前述の2つの冊子の概要を説明する。これらは写真集ではあるものの、写真は文楽と画家を説明するものとしての役割が強く、そこにおける精神性は、写真よりも論考に見ることができると考える。『Girls Of Japan』は他の2冊よりもさらに純粋に写真集としての志向性が強く、写真も複数の写真家が担当しており、これまでの2つよりも写真の多様性を重視している傾向が見られた。JPS PICTURE BOOKSの目的は、掲載内容の方向性を考えても、外務省からの資金援助を考えても、間違いなく対外的な文化宣伝だったといえる。その中で目指されたのは、文楽や日本画といった、文化としての単純な宣伝だけにとどまらず、欧米と比べても劣ることのない、日本人の高い精神性を紹介することが目的だったのだろう。



■昭和初期の新品種を描いた静物画 ―白瀧幾之助が描いた花を通して―
阿部 亜紀/福田美術館・京都女子大学大学院

 白瀧幾之助(1873-1960)は明治期から昭和期にかけて白馬会や官展で活躍した洋画家である。山本芳翠(1850-1906)や黒田清輝(1866-1924)、洋行時はラファエル・コラン(Raphael Collin、1850-1916)に師事。帰国後は、油彩、水彩、テンペラなど幅広い技術で新しいテーマに挑戦し、昭和27年(1952)には洋画界に尽力した功績で日本芸術院恩賜賞を受賞した。
 本研究では白瀧作の《ペチュニア》と《鶏頭》を取り上げ、近代洋画における画題やテーマの選択について注目する。白瀧は静物画のモチーフを選ぶときに「自分の興味を惹いたもの、又は好めるものがよい」としたが、画題の選択基準のひとつに、品種改良の結果生みだされた当時最新の品種を描いている可能性が高いということが明らかとなった。
 白瀧の縁戚にあたる坂田武雄(1888-1984)は、大正2年(1913)に横浜市で種苗会社「サカタのタネ」を設立した。坂田は白瀧の娘・須磨の義姉の夫にあたり、白瀧とは北海道スキー旅行に行くなど親しく交流していたことが分かっている。坂田は昭和9年(1934)に世界初の完全八重咲きペチュニアを開発し、全米審査会で銀賞を受賞という功績を残した。白瀧が昭和13年(1938)頃に制作した《ペチュニア》は、一般的な一重咲きのペチュニアではなく、坂田の「八重咲きペチュニア」が描かれている。さらに、坂田は昭和10年(1935)に同審査会で鶏頭の新品種「フレームオブファイヤー」が銅賞を受賞。白瀧作の《鶏頭》も同様にこの新しい品種をモチーフに描かれた可能性が極めて高い。
 白瀧は生涯を通して、新しい技術・モチーフを追求した画家である。今となっては一般的な静物画にしか見えないこの2点の絵画が、当時最新の人工的に生み出された花であったことは、近代洋画を研究する上において新たな視点を提供してくれるものである。